燃料電池と歴史

教科の中で歴史が好きだった人はどれくらいおられるだろうか?若いときは現代・未来のことなら価値があるのにと考えがちである。それでも、或る程度体験が積まれてみると歴史の面白さが分かる人はそれなりにおられると思う。”親になって始めて分かる親の苦労”と似ているかも知れない。
燃料電池のアイディアが出されたのは1801年だからかれこれ200年以上前のことだ。1960年代に米国の宇宙船用電源としての最初の実用化を経て、2009年にエネファーム、2014年に燃料電池車の一般販売が世界に先駆けて日本で普及に向けての動きが始まった。燃料電池は英語の fuel cellの翻訳で、電池とは違うのだから翻訳が悪いという人が結構おられる。このなかの cell は小部屋とか細胞などの意味がある。細胞という意味でのcellも最初に発見されて(1665年、ロバート・フック)から、中身が分かり更にその知見の応用展開が為されるまではもっと時間が掛かっている。それは最初に観察に掛かったのはひからびた細胞壁で内容が解析できる技術ができるまで時間が掛かったからで、その点では似ている。昨日聴講したサイテックサロンで京大森教授の「小胞体ストレス応答」の講演のなかで、ゆとり教育では細胞については顕微鏡で見える範囲に留めることになっており、ミトコンドリアと核に限定されている。小胞体については教育されてこなかった。下村博士のノーベル賞受賞の対象になった細胞を発光させる「緑色蛍光タンパク質」で現在は容易に見ることができるようになり、研究も加速された。”そうである。そのサイテックサロンでは通常は講演パワポ資料が配布されるが、忙しくて直前までパワポをいじっていたので間に合わなかったと言われていた。講演する立場としてはどうやったら分かってもらえるか直前までいじりたくなるので理解できる。森さんは倉敷のご出身で母校の味野中学校で講演された時のものが youtube に上がっている。中学生に質問を投げかけながらの講演であり、昨日の講演で使われた図も出ていた。一度ご覧になることをお薦めする。また、5月には「細胞の中の分子生物学」(ブルーバックス)が出版予定とのことである。
さて、私が学生時代に配属になった研究室は工業電気化学をテーマとしていた。確か入試の時に取り寄せた入試要項で「燃料電池」があったのはこの大学の学科だけであった。入学した夏にアポロ11号の月面着陸があり、アルバイト先で見た。実際に研究室に配属が決まったのは1973年だが、その時点では燃料電池のテーマは設定されていなかった。後年、イオン交換膜法水電解という国のプロジェクトを受託したのでというきっかけで入社した会社には研究室の大先輩が何人もおられた。入社後しばらくはその水電解に従事したが、水素ブームはすぐに立ち消えとなり、当時の上長は会社としての事業化を模索したが、結局、5年間程度で会社での研究は終了した。私の周囲では彼は水電解をするために入社したのに、今後はどうなるのだろうと心配してくれた人もいた。燃料電池に直接携わることになったのは1992年である。或る機会に大学の研究室の先輩とお会いしたとき、”今何をやっている?何、燃料電池?それはすぐ止めるべきだ。僕は大学でやったので一番よく知っている。あれは駄目だ。”と言われた。イオン交換膜法食塩電解の事業家を進めて来られた方としては実感であったのだろうと思う。また、今の燃料電池車に搭載されている燃料電池、固体高分子形燃料電池(PEFC)は高出力であることが特徴の一つだが、それを可能にした一つの技術が電極触媒をイオン交換樹脂の溶液で被覆することである。反応領域が三次元的となり、それまでに比べて圧倒的に出力が取れるようになった。このアイディアを辿ると、食塩電解用の酸素還元電極に適用した例が見つかる。これは日本の電池会社の特許だが、その発明者はよく、”燃料電池は悲劇の研究開発です。優秀な研究者がのめり込んできたが、事業化できずに、従って偉くなれずに定年を迎える方が山ほどおられます。”と言われていた。死屍累々とまでは言われなかったと思うが、エネルギー関連技術の開発は時間が掛かるものであり、せいぜい5年程度で見極めが為される民間会社が事業化するのは大変である。しかし、大学、国立研究所、民間会社での長い蓄積(失敗だったかも知れないが)があったればこそ、1980年代からの国を挙げての開発を進めることができたと言える。成功例は喧伝されるが、失敗史は残されない傾向がある。畑村工学院大教授は失敗例も重要な報告であることを主張され、失敗学会が2002年に設立されている。
私は1987年から代替フロン製造用触媒の研究開発に従事し、特許係争にも関わったが、驚いたことがある。米国の会社が英国の会社の特許の無効性を旧ナチスドイツの科学情報であるPBレポートを根拠に主張し、裁判所はそれを認めたのである。40年以上前のデータである。後年、このPBレポートについてのコメントを読んで更に驚いた。”成功事例について書かれていたのはわずか4万ページにすぎず、残り、すなわち92%は失敗した実験に関する詳細な記録だった”そうである。失敗も重要な情報としてきちんと残す風土があったればこそ、当時のドイツの化学技術が先端を走っていたとも考えられる。民度というか国の力の平均値を挙げていくことは重要と思う。現在、日本の教育に掛ける予算は世界でも最低クラスらしい。欧州、特に北欧は教育に力が入っているが、それは、教育に公的資金を投入することで、個人やその親などに直接に成果が反映されなくても国の力が上がることで回り回って自分に返ってくるとの共通認識があるとオイコノミアというテレビ番組で解説されていた。出席者の一人、又吉直樹さんは芥川賞を受賞しているが、この番組に関しても「オイコノミア ぼくらの希望の経済学」という本が出ているようである。一度内容を確認したい。
蘭学事始」(下線部をクリックすると、菊池寛の「蘭学事始」青空文庫にリンク。)を杉田玄白が書いたのは齢83歳の時である。彼自身はマネージャー役で、実際に翻訳したのは前野良沢であったこともあるが、結構思い違いがあるらしい。たとえば、顔の中の隆起した(フルヘッヘンド)部分を鼻ということが分かったときの感動を描写している部分、原著にはそれに該当する部分は無いということである。福澤諭吉が古書の中から感動したのは多分この部分だと思うが、それは創作だったことになる。が、彼らの翻訳チームの手法・体制は今でも有効らしく、諭吉の感動が再出版・多くの人への告知に繋がったという点では却って良かったとも言える。大きな事業を成し遂げるためには、多くの要素が絡んでくるが、タスクフォース役とまとめ役が仲良くやるというのは最低限の線だろう。そのタスクフォース役の前野良沢に気持ちを置いて書かれたのが、吉村昭の「冬の鷹」である。吉村昭は基本的に資料が残されている事象しか小説に著していない。技術者には共感できる部分が多い作家と思う。いずれにせよ資料を残しておくことは重要である。なお、「解體新書」や"Tafel Anatomie"の原著はネットで見ることができる。(下線部をクリック。慶応大学の収蔵。ライブラリーの説明では、杉田玄白がauthorで前野良沢他はtranslatorと書かれている。前野良沢の名前が無いのは初版本出版時には訳が不完全だとして前野良沢が反対したことによる。オランダ語版の頁をめくって見たが、辞書無しでよくぞ翻訳をやり遂げたものと、”ただあきれにあきれて居たるまでなり”だ。)
今年、FCDICは創立30周年を迎える。その記念事業の中に日本の燃料電池開発史の刊行という企画がある。関係者が書き残せるうちに燃料電池の歴史をまとめたいものだ。

(私が嘗てお世話になった会社では、相手を呼ぶときはさん付けが基本であり、社長でも・・さんだった。勝手ながら、このサイトもそうさせて頂きました。なお、故人とか呼び捨てが一般的な著名人はその限りにあらずとします。)

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